神明神社が鎮座する久喜市菖蒲町。埼玉県東部に位置し、元荒川、星川、見沼代用水などが北西から南東へ流れ、自然堤防と後背湿地に水田が広がっている。縄文時代当時この辺りは遠浅の海または湖沼が広がっていたという。
人々は比較的土地が高い台地に住居を構えていたことは、縄文時代の遺跡、下栢間の小塚遺跡(縄文時代中期から後期)・丸谷下遺跡(縄文時代中期)と小林にある地獄田遺跡(縄文時代後期から晩期)から確認されている。
目次
神明神社 (旧県社、延喜式内社宮目神社論社) / 天王山塚古墳 (埼玉県指定史跡) / 菖蒲神社
550mの参道は県指定天然記念物
所在地 埼玉県久喜市菖蒲町上栢間3366
社 格 式内社 旧県社
創 建 景行天皇の時創建と云う 由緒不明
祭 神 天照皇大神、豊宇気毘売
例 祭 一月十五日 火防除と呼ばれる「鎮火祭」「筒粥」の神事
神明神社は国道17号、北本方面に進み、宮内交差点で左折し県道311号蓮田鴻巣線に入りしばらく直進し、北中丸交差点で左折、県道312下石戸上菖蒲線に移りそれをまた直進すると右手に長々と伸びる森が見える。その長々とした森の先が神明神社社殿場所である。ちなみに神明神社南側にある鎮守の森公園脇に無料の駐車場があるので、そこに車を停め参拝を行った。
正面にあたる 一の鳥居 一の鳥居のすぐ左側にある社叢の碑 右側には社叢の案内板
埼玉県指定天然記念物 神明神社の社叢 埼玉県南埼玉郡菖蒲町大字上栢間三三六六他 昭和五十二年三月二十九日指定 神明神社は、古くから住民の信仰を集めてきた由緒ある社である。 社叢は、長さが五五〇メートルをこす参道林と境内林とから 成り、面積は約一.七四ヘクタールに及ぶ。参道の両側には、アカマツ・クロマツの並木が続いている。境内林は、高木にアカシデが多く、部分的にスギが点在する。これより低い木としては、ヒカサキ・シロダモ・エコノキ・アズマネザサ等が多い。草木類では、チヂミザサ・ジャノヒゲ等が比較的多い。この社叢は、現在はアカシデを主体とした不安定な状態を示しているが、潜在的にはヒサカキ・サカキを主体とするシラカシ群を、自然植生とみることができる。 境内にあるアカマツの大木は、樹状が笠状を呈するので、「笠松」として知られている。 埼玉県東部低地には、潜在自然植生をよく示す広域的な林は少なく、貴重である。 昭和五十四年十一月三日 埼玉県教育委員会 菖蒲町教育委員会 案内板より引用 |
550mの参道のスタート 半分くらいでしょうか、まだまだ続く。 やっとニの鳥居が見えてきた。
久喜市菖蒲町上栢間(しょうぶちょうかみかやま)にある神明神社は神社の森が県の天然記念物に指定されている。広さは約1.74ヘクタールで長さ550メートルを超す参道林と境内林からなっている。
長い参道の入口に立つと両側に続くアカシデなどの並木はトンネルのよう。社殿を囲む鎮守の森はヒサカキやシロダモなどが茂り趣がある。ヤブニッケイやウワミズザクラなど希少な植物も生息していて、県東部低地の植物の様子を示す貴重な自然林としても大切にされている。ヤマガラやコゲラ、シメなどの野鳥と出会えることもある。
何とも不思議な風景、不思議な感覚だった。両側に木々が生い茂っている中に入った瞬間、突然、神社の参道特有の湿気のある、ひんやりとした空気に包まれた。だが森の幅は短いので外部の風景は歩きながらでもよく見えるし、実際すぐに外にも出られた。森を抜ければ暖かい日を浴びることができ、車の音、田んぼを耕すトラクターの音など日常生活をするときの当たり前の生活音が聞こえる。この狭い空間だけ何か違うのだ。この感覚はここに来て感じてもらうしかないが、巷でよく言うところの結界とは、このような感覚をいうのかな、と首を傾げながらふと思った。
ニの鳥居を抜けると鎮守の森の独特の空間に変わる。 右側に手水舎 手水舎を過ぎると左側に神楽殿
拝 殿
神社の屋根にでている柱の形が神明づくりと言って、伊勢神宮と同じだそうである。神明神社は景行天皇の時創建と言われるが由緒は不明。参拝時期は9月で藪蚊がすごく発生、また境内林によって鬱蒼としていて、ところどころ苔がむしている。相当湿気があると体感した。
神明神社 所在地 埼玉郡菖蒲町大字上栢間 神明神社の創立は、社伝に景行天皇の時といわれる。 祭神は、古くは天照皇大神、豊宇気毘売神、大宮売神の三神であったが、現在は天照皇大神、豊宇気毘売神の二神を祭っており、伊勢神宮の分霊のため、近年まで「神明両社」と呼んでいた。 江戸時代、徳川家譜代の家臣内藤四郎左衛門正成が、栢間および新堀、三箇、戸ヶ崎、小材の旧五か村を領してから、五か村の総鎮守として以来、歴代の領主が厚く崇敬した。 明治6年に村社となり、昭和16年郷社に昇格し「神明神社」と改称、さらに昭和20年に県社となった。 本殿は、天保8年(1835)に建てられたもので、昭和38年に屋根を改修している。 毎年1月15日には、火防除と呼ばれる「鎮火祭」と、その火で粥を煮てその年の作物の豊凶を占う「筒粥」の神事が行われる。筒粥の神事は、大鍋に米三合水六升を入れ、葺の節のないところを長さ七寸位に切り、十八本を簀状にし麻で結ぶ。一本一本の葺に米粒が入る数によつて占い、多くの米粒がはいつたものほと豊作とされている。 昭和58年3月 埼玉県 社頭掲示板より引用 |
本 殿
よく見ると神明造の社殿が二座並んでいる。祭神が二柱おられるからだろう。単純に天照皇大神、豊宇気毘売神の2神だと考えるところだが、そうなると大宮売神の存在が宙に浮いてしまう。由緒等では「昔は天照皇大神、豊宇気毘売神、大宮売神の三神が御祭神だった」という。ではその昔とは何時の事だろうか。
境内の中央付近に大木があり(写真左)、これが「笠松」とよばれるアカマツの大木で、大木の隣には一旦枯れた大木の幹から新しい葉が育っていた。自然発生的に生まれる悠久の営みがそこにあり、地球という大きな生命体のみが持っている逆らえない法則、摂理を感じた。
我々が暮す地球上には様々な生き物が住んでいる。一つの種だけが単独で生存しているわけではなく、様々な種類の生き物と生き物が利用する環境がつながりを持ってはじめて成り立っている。生態系とは、そこに生息する生物の食物連鎖と周辺の森林・土壌・海・川などの環境、気候がバランスを取り合っている状態のことを言い、例をあげれば、田んぼやため池などに、小さな生き物やプランクトンが生息し、それを食べる大きな生き物も生息する。生き物の排泄物や日光を利用して植物が育ち、動物の住処ができ、植物をエサとする生き物も生息することが出来る。植物を食べる生き物は、食物連鎖によって植物を食べつくさない数を保っている。
こういった環境と生物の生息・繁殖のバランスが出来ている所は、小さな水溜りや植木鉢の中でも一つの生態系といえ、もちろん、人間を含めた地球全体でも一つの生態系ともいえる。このつながりが成り立たなくなってしまい壊れてしまうことが、生態系破壊の原因であり要因になる。
地球が誕生してから46億年の長い歴史と比べると、人類の450万年の歴史もほんの一瞬のことだ。そんな人類が、今地球環境へさまざまな影響を与えています。自分たちの快適で便利な生活のために、さまざまな発明を行い、科学を進歩させ、めまぐるしい発展を遂げてきた。
しかし、その一方で、地球環境に多くの犠牲を強いている。自然界はバランスが崩れ、これまでは想像できなかったスピードで地球温暖化が進み、多くの生物が絶滅の危機に瀕している。もちろん、人類もその生物の中の1種類といえる。動植物を含め、私たちは自然からたくさんの恵みを受けて生きてきた。その恵みをもたらす自然を破壊することは、自分たちの生活を脅かすことにもつながるのだ。
地球の温暖化は、健康に被害をもたらすオゾン層の破壊や、酸性雨、森林の減少、砂漠化、野生生物種の減少、有害化学物質の越境移動、海洋汚染、海面上昇などをもたらしている。
地球にとっても、人類にとっても、もはや一刻の猶予もないと思う。
現在、世界中の国と地域が協力し、この地球環境問題に取り組むためのさまざまな取り組みを始めているという。そしてヨーロッパをはじめ、環境先進国といわれる多くの国々とともに、日本も環境先進国の仲間入りを果たしている。その国の国民として、また、地球に生きる生物の1人としても、私たち一人ひとりが真剣に、この環境問題に取り組まなければならないとこの神明神社の参拝中感じた。
ちなみにこの笠松は神明神社の西南方の社叢雑木林の中にあるアカマツで、樹齢約300年。巨大な主幹が直立し地上十間ほどの所から多くの枝を出して、傘(からかさ)状をなし、樹叢の樹木中一大奇観を呈してる。
昭和十七年三月県指定天然記念物に登録された。(写真右はその石標)
神明神社境内には、近在の各社が合祀されている。
祭神を挙げると、大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命)、天神(菅原道真)、猿田彦命、保食神(うけもちのみこと)、市杵島姫命、須佐之男命、軻遇突智命(かぐつちのみこと)、木花開耶姫命、別雷命(わけいかづちのみこと)、三峰(三獄)社等。由来書等なく、記載できない境内社が多い。
趣のある神明神社の社叢
神明神社の社叢 1.74ヘクタールの面積があり、550メートルの参道林と境内林からなっています。境内林は、高い木にアカシデが多く、これより低い木としては、ヒサカキ、シロダモ、エゴノキ、アズマネザサなどがあります。草類では、チヂミザサ、ジャノヒゲなどが比較的多く見られます。 |
この神明神社の長い参道の延長線上の南側の先に、天王山塚古墳がある。
この天王塚は主軸をほぼ東西を示している。そして神明神社は、この天王塚に対して直角に参道が伸びている。神明神社と天王山塚との因果関係はどのようなものだったのだろうか。神明神社の創建は景行天皇の時と言う。創建年代の議論の余地はあるとして、お互い目と鼻の先にある社と古墳である。関連性がないというのがむしろおかしいのではないか。
神明神社との関係は?
所在地 埼玉県久喜市菖蒲町上栢間3284-1
埋葬者 不明
築造年代 7世紀前半(推定年代)
区 分 埼玉県指定史跡
天王山塚は、元荒川の左岸栢間地区に分布する栢間古墳群の中心をなす前方後円墳で、元荒川左岸の北足立台地の笠原支台(標高14m)に立地し、「栢間七塚」と称され、現在7基で構成されている栢間古墳群の主墳である。(昭和55年度の文献で、現在は9基が確認されている) 全長約107m、前方部の高さ約9m、後円部の高さ約10m、前方部幅約62m、後円部径約55mあり、主軸はほぼ東西をさす。埼玉県下でも6番目の大きさである。
墳丘の周囲には周溝が存在したが、現在は北と東に残るのみで、幅は約20mほどである。主体部は不明であるが、墳丘の形態から古墳時代後期(6世紀中頃)のものであるという。
前方部の入口付近には「埼玉県指定史跡天王塚」の石柱と天王山塚の案内板がある。
天王山塚 天王山塚は、元荒川の左岸栢間地区に分布する栢間古墳群の中心をなす前方後円墳で、全長約107m、前方部の高さ約9m、後円部の高さ約10m、前方部幅約62m、後円部径約55mあり、主軸はほぼ東西をさす。 墳丘の周囲には周溝が存在したが、現在は北と東に残るのみで、幅は約20mほどである。 主体部は不明であるが、墳丘の形態から古墳時代後期(6世紀中頃)のものである。 栢間古墳群は9基からなり県の重要遺跡に選定されており、中の1基押出塚古墳では緑泥片岩と砂岩を用いた横穴式石室が確認されている。 昭和58年3月菖蒲町教育委員 現地説明板より引用 |
前方部から撮影 後円部墳頂の様子。かなり広く、薬師寺の社殿
も通常サイズですっぽりと収まる広さだ。
栢間古墳群は9基からなり県の重要遺跡に選定されており、中の1基押出塚古墳では緑泥片岩と砂岩を用いた横穴式石室が確認されている。
古墳周辺では埴輪や須恵器が出土したが、本格的な発掘調査はまだ行われていない。また一説によれば、武蔵国造・笠原直使主の墓なのではないかとも言われているそうである。この辺りは古代「笠原郷」と呼ばれ、隣の鴻巣には笠原の地名も存していることから、その可能性は否定できないところだ。
天王山塚古墳の北部、及び東部には周濠がある。
今回念願が叶い、神明神社に参拝できた。帰宅し、早速カメラのデータをパソコンに入力し、住所からYahoo地図で確認したところ、一つ気になることを発見した。神明神社の参道、一の鳥居を基点として、そこから玉敷神社までほぼ一直線(正確には若干の誤差はあるが)であること。また玉敷神社を基点としてそこから鷲宮神社、前玉神社(ならびに埼玉古墳群)、神明神社の参道の始点までほぼ同じ距離なのである。さらに付け加えると前玉神社一玉敷神社一鷲宮神社がほぼ一直線である。偶然だと思うがどう思われるだろうか。
菖蒲神社が鎮座する旧菖蒲町は人口2万2679(1995)。元荒川,星川,見沼代用水などが北西から南東に流れ,自然堤防と後背湿地に水田が広がる。中心集落の菖蒲は星川東岸の自然堤防上にあり,江戸時代は2・7の日の六斎市が立ち,米,農具,木綿などの取引でにぎわった。自然堤防上ではナシ栽培が盛んであったが,近年は〈埼玉ダナー〉で知られるイチゴの産地でもある。平成22年の大合併で栗橋町や鷲宮町と共に久喜市に編入された。
所在地 埼玉県久喜市菖蒲町菖蒲552
御祭神 袋田大明神(奇稲田姫命) 鷲宮大明神(武蝦夷鳥命)
久伊豆大明神(大己貴命)
社 挌 旧村社
例 祭 毎年1月15日 左義長(三毬杖)
菖蒲神社は埼玉県久喜市菖蒲町、埼玉県道12号川越栗橋線の菖蒲宮本交差点の角に鎮座する。但し交差点付近には駐車スペースがない為、車で社に向かうためには交差点の手前のT字路を右折しなければならないのでそこは注意が必要だ。
古くは袋神社、袋明神社とも呼ばれ、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)を御祭神とする神社。現在の御祭神は袋田大明神、鷲宮大明神、久伊豆大明神の三神で、五穀豊穣、厄除、病気平癒に霊験あらたかとかいうらしい。
菖蒲神社の入口である二の鳥居から撮影 二の鳥居の先、左側にある菖蒲神社の案内板
菖蒲神社 所在地 南埼玉郡菖蒲町大字菖蒲
菖蒲神社は、古くは袋田者、袋田明神社とも呼ばれ、奇稲田姫命を祭神とする神社で、境内は東西二十五間(約45m)南北四十三間(約77m)で、面積は1,715坪を有していた。
現在の祭神は袋田大明神、鷲宮大明神(武夷鳥命)、久伊豆大明神(大己貴命)の三神で、五穀豊穣、厄除、病気平癒に霊験あらたかという。御神体は銅鏡で、本地薬師の像が彫られており、裏に寛文九年(1669)九月の銘がみられる。
新編武蔵風土記稿には末社として稲荷天神合社、雷電社、大黒天金毘羅秋葉聖徳太子合社があり、ほかに村内には稲荷社(村民持)、愛宕社(慈眼院持)、若宮八幡社、三所権現社があったと記されている。毎年一月十五日には、注連飾やお札を持ちより左義長が行われる。左義長は「どんど焼き」ともいわれ、長い竹数本を立て、門松や書初めなどを焼き、その火で焼いたモチを食べると一年間の病が除かれるというものである。
なお、三月下旬から五月下旬までの二、七の日には、鳥居前の通りに植木市が立ち賑っている。
菖蒲町教育委員会
案内板より引用
また鳥居を入った右側の境内の一角は、休憩所が設けられていて、その前に、菖蒲神社の絵馬の説明書きの案内板あった。
菖蒲町指定有形民俗文化財 菖蒲神社絵馬 六面
指定年月日 平成四年三月二十三日 所在地 菖蒲町大字菖蒲五五二 所有者 菖蒲神社
菖蒲神社は、「新編武蔵風土記稿」によれば、「袋田明神社 祭神は稲田姫命と伝」とあります。
同社には現在六面の大絵馬が残されています。三面一組の「百人一首」や、町内で唯一の「飾馬」、幕末の狩野派の絵師伊白榮厚の描いた「鞍馬山」などです。
「百人一首」は、天明八年(一七八八)五月、平沢喜兵衛ほか百名の伊勢大々御神楽講中によって奉納されています。三面に百枚の絵札を描く、ほかに例を見ない珍しい絵馬で、百人の奉納者が一首ずつ奉納するという形式をとったものです。絵師は藤原守直、細工人は辻幸八とあるほか、執筆が道祖土負栄とあります。
「鞍馬山」は、画題としては珍しいものではありませんが、細工人斉藤八五郎により荘厳な大型の絵馬に仕上げられ、絵師伊白榮厚が下絵を描き川原塚白泉が彩色するという大掛かりな作品となっています。伊白榮厚は、上新選久伊豆神社・台久伊豆神社など町内に六面の作品を残していますが、「狩野」を名乗るのはこの絵馬だけです。裏書には、天保九年(一八三八)、穀屋茂吉など十六人の証人と思われる人々の名前が墨書されています。
天明八年(一七八八)八月吉日奉納の「飾馬」は、中央の白馬と左右に配された黒馬が三頭向かい合う構図で描かれたもので、町内に唯一残された絵馬らしい絵馬です。嘉永五年(一八五二)五月の「神宮皇后」と合わせて、江戸中期以降見沼通船で栄えた町の様子を伝える資料として貴重です。
菖蒲町教育委員会
案内板より引用
休憩所の並びには県指定天然記念物の樹齢300年と言われる「野田フジ」があり、大正天皇の即位にちなみ「君万歳の藤」と名付けられた。根周りは約9mで、4月末〜5月はじめのゴールデンウィークの頃の開花時期にはみごとな花をさかせるという。残念ながら今回は9月の参拝だったので見ることができなかったが、次回にはその見事な藤を見てみたい。
「埼玉県指定天然記念物菖蒲のフジ」の明記された標石
二の鳥居の正面には社殿がある。開放的な社の雰囲気は大変気持ちよく、街中にある神社としては比較的境内は広く、ゆっくりと散策できる。
拝 殿
本 殿
また本殿の左側には境内社等が並んでいる。
まず拝殿から左側には八雲神社(写真左)があり、その並びには大黒社稲荷社・聖徳社・庚申社・琴平社・八雲神社がある。(写真中央)また境内社の奥にポツンとある稲荷神(写真右)の石祠がある。
菖蒲神社が鎮座する久喜市菖蒲町地区は名前こそ「菖蒲=あやめ」と可憐な印象を与え、菖蒲町新堀にある菖蒲城址は現在あやめ園として毎年6月上旬から中旬にかけて35,000株の花菖蒲が見所を迎えるほど名前通りの「あやめの町」として有名な地域だ。ただこの地域の歴史をひも解いてみると利根川、荒川等の河川に囲まれた氾濫原の地形ゆえに昔から鎌倉幕府等、時の為政者たちが開発を進められた地域であり、長年の周辺の河川の氾濫により形成された自然堤防から外れた加須低地の中の埋没ローム台地上にあるため当時の開発に携わった多くの人々の苦労も並大抵ではなかったと想像される。
社から県道12号を南下すると菖蒲町字陣屋には菖蒲城址がある。
現在は城址の遺構は全く残っていない。ただ一面の水田の中に「菖蒲城址あやめ園」があり、そのなかににぽつんと残る城址の標石と江戸時代にこの辺りを治めた旗本内藤氏の陣屋門が存在するだけだ。ただ築造当時は北・西・南に深い湿地帯となっていて、この地形を利用して対上杉氏に備えていたらしい。(但し埼玉郡に所属する古墳や神社、城のほとんどは沼地や湿地帯の微高地に築造されている。ある意味埼玉県東部の地形上の宿命なのだろう)
その名前の由来として室町時代には古河公方足利成氏の家臣金田式部則綱が、対立する関東管領上杉氏に対する最前線として構えた際に城の完成した日が菖蒲の節句だったので、その名がついた説や、享徳4年(1455年)6月、足利成氏が室町幕府および管領上杉氏との抗争の過程で、鎌倉より古河へと転戦する際に「武州少府」に一時逗留した旨の記述があり、この「少府」を「菖蒲」の地に比定する説もある。
天正18年(1590)小田原の役では、秀吉方に攻められ周辺の城とともに落城。その後廃城となり、江戸時代に入ると旗本内藤氏が陣屋を構えた。なお初代内藤正成は徳川16神将の一人に数えられる。
菖蒲神社を調べていく途中、気になったことがある。菖蒲町地区を含むこの久喜市には「久喜断層」が存在している、ということだ。この久喜断層は元荒川構造帯という久喜断層から綾瀬川断層の間の沈降地形のことをいうそうだ。2005年から実施された産業総合研究所の久喜断層調査では、断層帯での地下水成分の違いが見られるものの活断層の可能性は低いと考えられる。
綾瀬川断層は活断層であるが地震の発生確率は低いと考えられている。しかしこの断層の北西延長には西埼玉地震(S6.M=6.9)を引き起こした深谷断層があり東京湾方向の断層と連動しマグニチュード8級地震を懸念する研究者もいる。
滝宮神社の項でも述べたことだが、日本は地震大国であり、火山大国でもある。埼玉県はこのような自然被害は他県に比べると少ない県と言われているが、それでも日頃の防災意識は必要だ。筆者の自宅には熊谷市の洪水ハザード、地震ハザードを貼り付けており、非常時の対策を万全とは言えないが行っている。東日本大震災の教訓を学び、その対策や備えを日頃から各家庭のレベルでも行わなければいけない、そういう時期が来てしまったのかもしれない。寂しい限りだ。