鷲宮神社が鎮座する旧鷲宮町、現久喜市鷲宮は古墳時代の土師部の居住地の宮「土師宮」の転訛であるという。埼玉県東部に位置し、北葛飾(きたかつしか)郡の町で1995年当時の人口は3万4065人。利根川中流の低地を占め,古利根川が町の中央を南流する。中心集落の鷲宮は古くから武将の信仰を集めた鷲宮神社の門前町で,江戸時代には穀物や木綿を取引する市が立っていた。また瓦の生産でも知られた。近年までは米作と野菜栽培を中心とする純農村地域であったが,1971年に日本住宅公団(現、住宅・都市整備公団)の大規模な住宅団地が造成されて以来、東武伊勢崎線鷲宮駅を中心に通勤住宅地として開発が進んでいる。

 伝承では紀元前148年から紀元前29年頃に設立したとされ、一般的に関東最古の神社とされている。ただし『延喜式神名帳』や『国史』に記載がなく、現存する資料では1251年(建長3年)に北条時頼が奉幣祈願したことが『吾妻鏡』に記述されているのが最初である。残されている文化財もそのころのものが最古である。

 最近では、アニメ「らき☆すた」の神社モデルとされ、絵馬などが用意され、当地の町興しに多大なる影響を与えているそうだ。

  


                             鷲宮神社

                                 地図リンク
                                                                  関東最古の古社 なれど延喜式に名前はなし

                                        



                                           所在地     埼玉県久喜市鷲宮1丁目6番1号

                                           主祭神
     天穂日命(武蔵国造の祖)
                                                   武夷鳥命(天穂日命の御子神)
                                                    大己貴命(大国主命、出雲族の神)

                                           社  格
     准勅祭社、県社、別表神社

                                           社  紋
     三つ巴

                                           例  祭
     三月二十八日

                                           特殊事等
   十二月初酉の日 大酉祭



 鷲宮神社は東武伊勢崎線鷲宮駅から徒歩5分に鎮座している。ちなみに地名はわしみやだが神社名はわしのみやと言う。かつては鷲大明神〔わしのだいみょうじん〕、浮き島大明神ともよばれた。中世の資料には「鷲宮〔わしのみや〕」と表記されることが多く、『新編武蔵風土記稿』には「鷲明神社〔わしのみょうじんしゃ〕」とある。同系統の祭神を祀る「鷲宮神社」は埼玉県北部から栃木県南部にかけていくつか存在していて、久喜市内でも八甫(はっぽう)や下早見に小さな「鷲宮神社」がある。


                                         

                                                  関東の古社らしく荘厳な印象の一の鳥居

                                            

                                       一の鳥居横にある由緒略記                境内にある鷲宮堀内遺跡の石碑


 社伝によれば、神代の昔、天穂日命が東国を経営するために、武蔵国に到着し、天穂日の供の出雲族27部族と地元の部族が当地の鎮守として大己貴命を祀ったのに始まる、と伝えている。その後日本武尊が東国を平定した際、別宮を建てて天穂日命とその子神武夷鳥命を祀ったという。現在の本殿はその別宮にあたる。
崇神天皇の御代には、太田々根子命が司祭し、豊城入彦命、彦狭島命、御諸別王が、それぞれ幣帛を奉納した。景行天皇の御代には日本武尊〔やまとたけるのみこと〕が社殿を造営し、桓武天皇の御代には坂上田村麻呂〔さかのうえのたむらまろ〕が武運長久を祈り、奥州鷲の巣に当社の分社を祀ったと伝える。

 ただし、その社伝の言い伝えは「延喜式神名帳」、日本書紀等の「国史」には記載がなく当社が初めて登場する文献は「吾妻鏡」で13世紀中旬に当たる。


 
境内には縄文から古墳時代にかけての複合遺跡である「鷲宮堀内遺跡」もあり、縄文時代の住居跡や土器などが沢山発掘されている。大昔からここに神を祀っていたのだろう。歴史ある神社には遺跡がある場合が多い。


                                    

                                      鷲宮神社参道。正面に拝殿があり     参道右側には源義家公の   本殿東側にある文政12年
                                       よく見ると拝殿は横を向いている       駒つなぎの桜がある      に奉納された銅灯籠

 

                                                

                                                           みひかりの池

  古来よりこの池には、龍神様がお住まいになられていると言い伝えられてきました。しかし永い年月の間に風雨等により土砂が流れ込み、池が埋もれておりました。平成11年より、古来の御神池に復元すべく土砂の搬出をしておりますと、池から湧水が溢れ出て、龍のような雲が空を覆いました。その時に「天まで光り輝くような池」という御神託を受け、池の名を光天之池と名付けました。
                                                                                                      境内看板より引用


                                     

                                    みひかり池近くに鎮座する久伊豆神社        八坂神社(左奥)と八坂神輿殿(右


                                                

                                                  参道を抜けると鷲宮神社の広い空間が広がる

                                                

                                                             神楽殿

  土師一流催場神楽」(はじいちりゅうさいばかぐら、国指定重要無形文化財)は関東神楽の源流とも言われている。この神楽は鎌倉時代の史書「吾妻鏡」に、建長3年(1251年)4月に鷺宮神社で神楽が行われた、との記載がある。江戸時代の享保以前には三十六座の曲目があったが、それを時の大宮司であった藤原国久によって、現在の十二座の曲目に再編成されたとされる。実際は、十二座の曲目以外に、外一座と番外一座、それに端神楽も演じられる。

 神楽殿の正面に拝殿を向けている配置となっており、神楽の舞を神様に見せるようにわざとこのようにしたのではないか、と想像を膨らましてしまう。

                                         

                                                        拝殿 斜めから撮影

 中世以降には、関東の総社また関東鎮護の神として、武将の尊崇が厚く、歴史上有利な武将だけでも藤原秀郷・源義家・源頼朝・源義経・北条時頼・北条貞時・新田義貞・小山義政・足利氏歴代・古河公方・関東管領上杉氏歴代・武田信玄・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康等があげられ、武運長久等を祈る幣帛の奉納や神領の寄進、社殿の造営等がなされた。なかでも江戸時代には、四百石の神領を与えられ、代々の将軍の名で朱印状が残されている。ちなみのこの鷲宮神社の社格の高さを表すものとしては、武蔵国内においては大國魂神社の五百石に次ぐ、
2番目の規模という。



 明治天皇の御世には、神祗官達により准勅祭社に定められ、勅使参向のもと幣帛の奉納がなされた。そして明治天皇行幸の際、当社に御少憩され、祭祀料として金壱封を賜り、昭和天皇の御世にも、幣帛を賜り、現在は別表神社に指定されている。


                                         

                                                            本   殿

 向かって右側が入母屋風の一間社流造りの鷺宮神社本殿(祭神 天穂日命、武夷鳥命) 、左側に切妻屋根の一間社流造りの神崎神社本殿(祭神 大己貴命)。本殿は玉垣の中に別々の社が2座並ぶ珍しい形式である
 ちなみに鷲宮神社本殿の鰹木は5本、神崎神社本殿は3本、千木はどちらも外削ぎなので男神二柱ということになる。

*千木、鰹木 

 神社建築などに見られる、建造物の屋根に設けられた部材で、千木は古代、屋根の建造する際に木材2本を交叉させて結びつけ、先端を切り揃えずにそのままにした名残りと見られる。千木・鰹木ともに本来は建物の補強が目的だったと考えられる。「鰹木」の名称は、形が鰹節に似ていることが由来とされる。鰹木は「堅緒木」「堅魚木」「勝男木」「葛尾木」などとも書く。

 出雲大社を始めとした出雲諸社は、祭神が男神の社は千木を外削ぎ(先端を地面に対して垂直に削る)に、女神の社は内削ぎ(水平に削る)にしており、他の神社でもこれに倣うことが多い。また鰹木の数は、奇数は陽数・偶数は陰数とされ、それぞれ男神・女神の社に見られる。

                                                  


                                                

                                                            拝殿前のご神木


                    

                              姫宮神社                        八幡神社                         鹿島神社

                                   

                                             諏訪大神                        栗島神社
                                 
 栗島神社正面から鷲宮神社を眺めると丁度神崎神社本殿が延長線上にある。単なる偶然か。鎌倉時代あたりから戦国時代まで、鷲宮神社のすぐ西側に栗原城という鷲宮神社の社領の領主の居館が築かれていたらしいが、それとの関係だろうか。それとも栗(あわ)→安房→阿波なのだろうか。 


  鷲宮神社と文化財

 当社は御祭神 武蔵国造の遠祖天穂日命武夷鳥命(あめのほひのみことたけひなとりのみこと) 大巳貴命(おおなむちのみこと) 外合祀神九柱を奉神 出雲族の関東最古の大社にして景行天皇の御字日本武尊の造営次いで武蔵国造の司祭造営中世以降関東の総社また関東鎮護の神として武将の尊崇厚く藤原秀郷源義家 鎌倉時代には建久四年(一一九三)十一月源頼朝の神馬奉献 社殿造営 建長三年(一二五一)四月北条時頼の神楽奉納 正応五年(一二九二)北条貞時の社殿造営 応安五年(一三七二)小山義政の社殿修復などが古文書に見えます。
 室町時代に至り足利氏古河公方などの保護を受け天正十九年(一五九一)徳川家康から四百石の朱印地を与えられました
したがってこれらゆかりのある文化財が数多く所蔵され国指定 県指定となっているものが多くあります。

    所蔵の文化財

◎一、太刀一口 重要文化財 国指定(大正三・四・十七)銘「備中国住人吉次作」「永和二年卯月十九日義  政」(一三七六) 小山下野守義政寄進
○二、銅製双鶴蓬莱文鏡一面 県指定有形文化財(工芸品) 指定(昭和三一・二・一) 鎌倉時代の典型的 な鋳造
◎三、銅製桐紋方鏡 一面 沈金彫鏡?(きょ) 一合 重美指定(昭和十六・七・十七)(工芸品) 県指定有  形文化財(昭和三九・二・二七)桃山時代の白銅製方形の鏡と?(きょ) 一合
○四、銅製蓬莱文鏡 一面 重美指定(昭和十六・七・十七)(工芸品) 県指定有形文化財(昭和三九・五・二 七)室町時代 中国の伝説に基づいた蓬莱山文様の銅鏡
○五、銅製御正体 二面(工芸品) 重美指定(昭和十六・七・十七) 県指定有形文化財(昭和三九・三・二七 )室町時代の作 文安二年長録二年の銘あり
○六、鷲宮神社古文書
 県指定有形文化財(昭和三九・三・二七)古文書二十四点 室町時代から戦国時代の中世文書、足利氏、  太田氏に関するもの。棟札一枚文禄四年社殿造永に関するもの 
○七、鷲宮催馬楽神楽 県指定無形文化財(昭和三五・三・一) 国指定無形文化財(昭和四五・五・二二)「  土師一流催馬楽神楽」といわれ一二座外一座 関東神楽の源流として有名
○八、寛保治水の碑 県指定(昭和三・三・三一)長州毛利公の寛保三年夏五月利根上流以南修築完工記  念の奉納碑
文化財は私達祖先の生活を知る貴重なる財産です 長く愛護保存していきましょう
  昭和四十八年十一月二十九日 埼玉県教育委員会
                       鷲宮町教育委員会
                       武蔵国 鷲宮神社

                            

                                  

鷲宮の神輿(みこし) 

『関東最古の鷲宮神社に伝わる本社神輿は、江戸寛政年間(1789)に造られたものです。台座は縦横とも約1.4メートル、重さが約3屯あり、続に「千貫みこし」とも呼ばれ県内では最大のものと云われています。

神輿は例年夏祭り初日の7月13日に渡御していましたが、一回に180人、交代要員を入れると500人以上の担ぎ手が必要なため、大正2年(1913)には車に乗せて引くようになりました。それ以降「人が担ごう」という話は何度となくありましたが、余りの重さと担ぎ手不足からついに実現しませんでした。しかし、昭和58年、地元有志により祭輿会が組織され、70年ぶりに見事復活しました。今では担ぎ手も関東一円から集まるようになり、毎年9月の第一日曜日には勇壮な一大ページェントがくりひろげられます。』
(案内板より)


 鷲宮神社は埼玉郡内に鎮座する古社であり、また縄文時代から古墳時代にかけての複合遺跡である「鷲宮堀内遺跡」もあり、縄文時代の住居跡や土器などが沢山発掘されているように、決して未開の地ではない。にも関わらず10世紀初頭に編集された延喜式内社には名前はない。式内社は、延喜式がまとめられた10世紀初頭には朝廷から官社として認識されていた神社であり、その選定には政治色が強く反映されている。当時すでに存在したはずであるのに延喜式神名帳に記載されていない神社を式外社(しきげしゃ)という。

 式外社の定義としては
  ・ 朝廷の勢力範囲外の神社や、独自の勢力を持っていた神社(熊野那智大社など)
  ・ 神仏習合により仏を祀る寺であると認識されていた神社、僧侶が管理をしていた神社(石清水八幡宮など)、
  ・ 正式な社殿を有していなかった神社など

 鷲宮神社は式内社どころか式外社にも選定されなかったところから、別の理由があったとしか考えられない。

 ちなみに埼玉郡の延喜式内社は次の4社だ。
 
 埼玉郡 四座 並小
  前玉神社 二座
  ・ 前玉神社   埼玉県行田市埼玉5540
  ・ 前玉神社   埼玉県北埼玉郡騎西町根古屋476
  玉敷神社
  ・ 玉敷神社   埼玉県北埼玉郡騎西町騎西552
  宮目神社
  ・ 玉敷神社(境内社) 埼玉県北埼玉郡騎西町騎西552
  ・ 高城神社   埼玉県熊谷市高本562
  ・ 姫宮神社    埼玉県南埼玉郡宮代町姫宮373
  ・ 神明神社   埼玉県南埼玉郡菖蒲町上栢間3366

                              


 式内社、式外社については武蔵国延喜式神名帳にて紹介しているが、他にも面白いコメントをしているサイトがあり、別途紹介したく思う。







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