羽生市は埼玉県の北東部に位置する人口約5万7千人の市である。都心から60km、さいたま市(浦和区)から40kmの距離にあり、東と南は加須市、西は行田市、北は利根川を隔てて群馬県に隣接している。主な交通機関は、東武伊勢崎線、秩父鉄道、東北自動車道羽生インターチェンジ、国道122号、国道125号がある。

  江戸時代末期以降、青縞(あおじま)の生産が行われ、現在も衣料の街で有名だ。市名の由来として、市内の神社にある懸仏に、天正18年(1950年)太田埴生庄との銘があり、埴(はに、赤土の意)が生(う、多いの意)であることを表しているといわれている。また埴輪(はにわ)がなまったものという説もある。

  文字としては、「鎌倉大革紙」に、長尾景春が文明10年(西暦1478年)に羽生の峰に陣取ったことが記されている。 また、「小田原旧記」には、武州羽丹生城代中条出羽守との記載があり、埴生、羽生、羽丹生の三種が今まで用いられていた。(羽生市史上巻より)


 目次 大天白神社  /  毘沙門山古墳 埼玉県選定重要遺跡  /  永明寺古墳 埼玉県選定重要遺跡 羽生市指定史跡  /  下村君鷲宮神社



                                 大天白神社
                                     地図リンク
         
                                                                      本来の祭神は誰、謎の天白神 

                                                


                                            所在地   埼玉県羽生市北2丁目8番13号

                                            主祭神   大山祇命、大巳貴命、少彦名命

                                            社  格   不明

                                            由  緒   弘治三年(1557年)に羽生城主木戸伊豆守忠朝の
                                                   夫人が安産祈願の為に勧請し創建。後に木戸氏と成
                                                   田氏の合戦により焼失したが再建され、以来、安産・
                                                   子育ての神として信仰されている。


 大天白あるいは天白を名とする神社は静岡県から愛知県、三重県に多く、名古屋市に天白区や天白川があることはよく知られている。天白神社については、農業神、旅の神など諸説があって、はっきりしたことはわからないらしいが、一説によれば、縄文時代から続く土着系信仰ではないかという、
 ただ正直天白神とはなにか、これがまた正体がよく判らない。海や川を鎮める神(水神?)であったり、星の神であったり養蚕・織物の神であったり、他にも天津甕星ミシャグシ神とも関連があったりと謎だらけの神だ。

 埼玉県羽生市北2丁目に大天白神社があり、大山祇命を主祭神として、大己貴命、少彦名命を祀っている。『埼玉の神社』には、川に関係のある神社と思われる、とある。また、祭神は、『武蔵國郡村誌』には、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)とあり、内陣にも倉稲魂命の御影掛け軸があるから、元は稲荷神を祀っていたのではないかというが詳細は不明だ。

 大己貴と少彦名とが祭神となっているのは、明治40年に、大字羽生字栃木にあった蔵王権現社を合祀した結果であり、大天白神は羽生城主木戸伊豆守忠朝の夫人が安産祈願のために、弘治元年(1555年)に勧請したという

                                                

                                                   大天白公園正面入口にある一の鳥居

 大天白神社は羽生市北2丁目、羽入市役所から北西方向に約2kmのところに鎮座する。神社までの経路は住宅の生活道路のような狭い道を入ってくるので、ナビがないとわかりにくい。神社と公園が隣接しており、一の鳥居の先にはは見た通り藤の棚が出迎えてくれた。ここは大天白公園と言って平成13年にリニューアルした藤棚の面積は770平方m。紫色と白色の藤あわせて60本が植えられているとのこと。

 ちなみに藤は羽生市の花である。(撮影日は6月3日だったので藤を見ることができなかった)
 この藤棚は左側にカーブし、その先に大天白神社が正面に鎮座している。その反対側は駐車場で20〜30台駐車可能。

                                               

                   藤棚が左カーブしその先に神社があり(写真左)、 その反対側に駐車場が(同中央)ある。そして参道の先でニの鳥居手前、左側にある案内板(同右)

  大天白(だいてんばく)神社

祭神は大山祇命(おおやまづみのみこと)を主神に大巳貴命(おほなむちのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)の三神である。
 この神社は、弘治三年(1557年)三月羽生城主木戸伊豆守忠朝の夫人が安産祈願のために勧請し創建されたと伝えられる。その後、上杉氏(木戸)と北条氏(成田)の数度の合戦により社殿は焼失したが、里人達の熱心な勧進によって再建された。
 以来、安産・子育ての神として信仰されており、毎年五月と十月に例大祭が開かれている。

 昭和五十五年三月  埼玉県
                                                                                                        案内板より引用

                    

                    藤棚を過ぎると正面に神社が鎮座する。      二の鳥居の先、右側にある堀田相模守生祠         堀田相模守生祠の案内板

                                     
 二の鳥居を過ぎて右側にある堀田相模守生祠。案内板では下総佐倉藩藩主で、この地は飛び地で領地であったようだが、なぜこの単なる飛び地であり、それも藩主となり10年後に新たに領地となったこの場所にわざわざ生祠をたてたのか不明な点が多い。

 
この時期は宝暦の大飢饉(1755〜1757)が東北地方を中心に多数の農民が餓死したと歴史は伝えている。江戸時代は気象学でも全般に冷気の時代と言われ、ただでさえ作物など直接影響を与えていたであろう。また宝暦の大飢饉から二十数年後、天明の大飢饉(1782〜1787)がまた東北地方に発生している。ちなみに天明の大飢饉は日本の近世史上最大の飢饉と言われ、事実当時日本の人口は2,600万人だったが、1786年(天明6) 2,509万まで減少、そのうち東北地方は30万人減少している。とすると、残り約60万人はその他の地域ということとなる。佐倉藩も比較的東北地方に近く、当時の飢饉に何らかの影響を受けたであろう。当時の情勢を考えるならば、この生祠は地元の農民、地主らが領主崇拝のため自主的に建立したというよりも、その当時の為政者が農民対策の一環として行ったひとつの政策ではなかったかと筆者は現時点で考える。


                                  

                                            拝      殿                      本     殿
                                      規模はやや小さいが綺麗である。   県北に位置しながら、上毛地方特有の派手な様式でない。



 ところで、大天白神社の天白というと、先ほど記載した通り、天甕星、ミシャグシ神の他、瀬織津姫の存在は忘れてはいけないと思う。天白神同様この神も謎だらけだ。               
                  
 瀬織津姫(せおりつひめ)  大祓詞に登場する神である。瀬織津媛・瀬織津比売とも記載される。

 祓戸四神の一柱で災厄抜除の女神である。神名の名義は川の早瀬の穢れを清めるとある。祓神や水神として知られるが、瀧の神・河の神でもある。その証拠に瀬織津姫を祭る神社は川や滝の近くにあることが多い。この神様は不思議なことに『古事記』にも『日本書紀』にもその名前が掲載されていない。日本の神様はだいたい『古事記』に登場しているのが普通なことで、これはとても珍しい。ネットで調べたところ、瀬織津姫は「大祓詞(おおはらえのことば)」という祝詞の文句の中に登場する神様で調べると大変複雑な女神のようだ。

 瀬織津姫に関しては、大変長くなるので別項にて述べたい。










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 羽生駅東口を下りて北へ向かい、最初の踏切に差し掛かると、右手に鎮座する「古江・宮田神社」が見えてくる。社殿は小高い微高地上に建っているが、これこそ毘沙門山古墳、別名毘沙門塚と呼ばれる前方後円墳である。
 この古墳の概要は以下の通り

 前方部を西に向ける2段構築の前方後円墳。明治36(1903)年東武伊勢崎線の路線敷設のため、前方部西側の一部が切り取られた。この工事中に埴輪片が発見されている。明治41(1908)年には、前方部墳頂に古江官田合殿社が移築された。墳丘の傍らに「建長八年丙辰二月二十七日」紀年の板碑があるが、これは横穴式石室の天井石を再利用したものと考えられる。埴輪の存在から6世紀後半の築造と考えられる。


                                毘沙門山古墳
                                       地図リンク                        街中に存在する歴史ある古墳

                                                 


                                               所在地     埼玉県羽生市西1

                                               区  分     羽生古墳群 県選定重要遺跡

                                               埋葬者     不明

                                               築造年代    6世紀後半(推定年代)


 毘沙門山古墳は羽生駅東口を下りて北へ向かい、最初の踏切に差し掛かると、右手に鎮座する「古江・宮田神社」が見える。社殿は小高い丘の上に建っていて、この丘全体が実は毘沙門山古墳、別名毘沙門塚と言われる古墳である。まさに街の中にある古墳だ。
 実は日頃自家用車で参拝を行っている筆者としては非常に困った事態がここでは発生してしまった。この近辺に車を停める適当な駐車スペースが全く存在しないことだ。いやあるとしても、この羽生市街地の内情に疎い筆者にとっては仕方なく周囲を探し回るしかない。一時は今回諦めようと思ったが、羽生市の歴史を語る上においてもこの古墳を外すわけにはいかないので探し回った。そのうちやっと毘沙門山古墳沿いにある埼玉県道128号熊谷羽生線を西に進むこと約500m先にコンビニエンスがあり、そこに駐車して参拝できた。やはり前準備は必要だと、今回の参拝で肝に銘じた次第だ。

                                 
 

                                   東武伊勢崎線近くから古墳方面を撮影             別角度から遠景を撮影

 
 『埼玉の古墳』によると、毘沙門山古墳の規模は次の通りだ。
 「憤長六三メートル、前方部幅約四〇メートル、前方部高四・五メートル、後円部径約三五メートル、後円部高四・五メートル、前方部を西に向ける二段築成の前方後円憤」とある。また、築造年代は6世紀後半代と考えられて、かつてはもう少し規模が大きかったようだが、明治36年(1903)の東武鉄道の工事のために前方部の一部が削り取られてしまった。また、古墳のまわりには堀が巡っていたという。これは一重か二重かは不明。これも都市の開発と共に埋め立てられ、住宅がどんどん軒を連ねていきた。


●毘沙門山古墳

 全長63m、高さ4.5m、後円部直径約35m、前方部を西に向ける2段築成の前方後円墳です。
 明治36年東武鉄道の線路敷設のため前方部西側の一部が切り取られ、その際に埴輪の破片が発見されました。築造年代は、埴輪から6世紀後半代と考えられています。なお、毘沙門山古墳の東南方の毘沙門塚古墳(「塚畑」と呼ばれていた所)から、昭和32年に円筒埴輪が発見されています。

                                                                                                羽生市ホームページより引用

 この毘沙門山古墳は2つの区画に分けることができる。一つはこの古墳を含め、古墳上に鎮座する古江宮田合殿社の区画である。

                    

                     線路沿いにある古江宮田合殿社参道       前方部墳頂にある古江宮田神社社殿              社殿内部の石祠群
                                                                                 この社殿は複数の社の合祀社でもある。


 そしてもう一つの区画は古江宮田合殿社参道の北側に入口があり、そこには一見神社風の毘沙門堂がある。もともとの毘沙門堂は建長8年(1256)に北条時頼が創建したものと伝えられている。現在の毘沙門堂は宝永3年(1706)に新築され、その後何回か改修を経たものという。

                    

                     埼玉県道沿いにある毘沙門堂の看板               毘沙門堂正面             何となく拝殿、幣殿、本殿形式に見えてくる。


                                                  

                            くびれ部裾には、どう考えても毘沙門山古墳の横穴式石室の天井石を利用したとみられる、緑泥片岩の板碑がある。     
           


                              
 埼玉県行田市にはさきたま古墳群の他、真名板高山古墳、小見真観寺古墳、八幡山古墳等古墳が密集している地域だが、次いで羽生市にも古墳がたくさん存在していてなかなか侮れない勢力が存在していたと想像できる。

 また不思議と埼玉県北部熊谷市から羽生市にかけて、利根川流域南側の前方後円墳は毘沙門山古墳や、羽生市下村君地区にある永明寺古墳、さらに真名板高山古墳、小見真観寺古墳、少し離れた熊谷市奈良地区にある横塚山古墳等や上中条地区にある帆立貝式古墳である鎧塚古墳(主軸長43m)は全て主軸を東西の方向に向いている。(但し前方部が東西逆方向に向いている
相違点はある)
 何かしら関連性があるのであろうか。







 


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 永明寺古墳は東北自動車道のすぐ東側、稲荷塚の鷲宮神社から埼玉用水路に沿って西に向かった所、地形的には利根川が群馬側に張り出して蛇行した所にあり、村君古墳群内にある前方後円墳である。


                                      永明寺古墳
                                           

                                                                   何故利根川の南岸近くに造られたのか 

                                                


                                            所在地     埼玉県羽生市下村君字谷田

                                            区  分     埼玉県選定重要遺跡 羽生市指定史跡

                                            築造年代    6世紀初頭(推定) 埋葬者不詳



 永明寺古墳は東北自動車道のすぐ東側、稲荷塚の鷲宮神社から埼玉用水路に沿って西に向かった所、地形的には利根川が群馬側に張り出して蛇行した所にあり、村君古墳群内にある前方後円墳である。
 この古墳は、羽生市で最大の前方後円墳(埼玉県羽生市村君)で、全長78m、高さ7mで埼玉県下で10番目の大きさを誇る。真言宗・永明寺の境内にあり、前方部に文殊堂、後円部に薬師堂が祀られている。1931年に薬師堂の床下を発掘、緑泥片岩等を用いた石室から衝角付冑、挂甲小札、直刀片、鏃、金製耳輪などが出土したらしい。


                    

 永明寺正面の真浄門(写真左)の手前左側に永明寺古墳の石碑があり、その門の先の突き当りに(同中央)古墳がある。案内板(同右)の奥にあるこんもりとした山が全て永明寺古墳になる。 

 永明寺と永明寺古墳

 永明寺は、真言宗豊山派・堤の延命寺の末寺で、五台山薬師院と号する。永明寺古墳は古墳時代後半に作られたもので、高さ七m、全長七十三mの前方後円墳である。
 前方部には文殊堂、後円部には薬師堂がある。昭和六年に薬師堂の下を発掘したところ、大きな石を敷いた石室が見つかり、中から直刀、やじり、金製の耳輪などが出土した。
 市内にはほかに毘沙門塚古墳など二十三の古墳があるが、規模、保存状態の点で市内の代表的古墳である。
ま た、薬師堂には貞治六年(1366)に修造された高さ八十五センチ、台座六十センチの県指定重要文化財である木造薬師如来像が安置されている。『細い螺髪、丸い顔立ちとおだやかな衣文につつまれた体躯など、一見平安末期の定朝様の流れがこの時代にも生き続けていたことの証明となる遺品である。』といわれている。
                                      埼玉県   昭和五十五年三月
                                                                       境内案内板より引用
                            
                     

 

 永明寺古墳は現在の地形では利根川を見下ろす台地の上に築造されている。古代この利根川は幾度と氾濫を繰り返し、現在の流路になったといわれるが、それにしてもあまりにも利根川に近すぎる。築造当時それほど近くなかったかもしれないとの見解があるかもしれないが、それでも大きな?を感じてしまった。また台地上にたてられたといっても標高17m、水田からの比高は僅かに2mで、主軸はほぼ東西に向いている。利根川の氾濫がおこった場合、その濁流を横正面から直接受けてしまっただろう。河川の氾濫地域の真っ只中に古墳を造る、この永明寺古墳の埋葬者はどのような考えでこの地域に古墳を造ったのだろうか。

 自分が生まれ育ったこの地でこの先も眠りたい、という観念的な考えは解らない訳ではないが、それだけではないはずだ。時の為政者たちは重要な現実問題の一つの解決策の一つとして古墳築造を行ったと考えたほうが自然だ。それは羽生市にある永明寺古墳が属する村君古墳群のほかにも多くの古墳群が現存しているが、それらの立地条件をみてもある程度判明できる。
    
   新郷古墳群 (羽生市上新郷、利根川南岸1q弱の自然堤防上に分布に存在)
   今泉古墳群 (羽生市今泉、利根川南岸1.5kmに存在。4基の古墳中熊野塚古墳のみ現存)
   尾崎古墳群 (羽生市尾崎、利根川南岸に存在、河川の氾濫などでかなりの数の古墳が埋没)
   羽生古墳群 (羽生市羽生、羽生駅北側に存在、毘沙門山古墳が有名)
   小松古墳群 (羽生市小松、地下3mから古墳の石室が発見され、古墳が沖積層の下に埋没)
   村君古墳群

 これらの古墳群の最大の特徴はすべて利根川南岸の、それもかなり河川から近い場所に、それも横並びに古墳群は造られている、ということだ。この事実は非常に重要な定義が隠されているのではないだろうか。
   
 埼玉県の東部は、関東平野のほぼ中央部に位置し、利根川や中川にそって上流から妻沼低地、加須低地、中川低地と続き、低地に囲まれるように大宮台地が大きな島状にあり、 このうち羽生市がある地帯は加須低地と言われ、利根川中流域の低地のひとつとして南の大宮台地と北の館林台地の間に位置している。
 この加須低地の場合、ほかの低地とは少々違う点があり、ひとつは自然堤防と思われる微高地の地表のすぐ下からしばしばローム層が発見されることで、低地の浅い部分の地下にローム層が存在することは一般では考えられないことらしい。。しかもなぜか微高地の下にローム層があり、後背湿地の下からは見つからない。ふつう自然堤防と後背湿地の構造的な違いは表層部付近だけであり、地下はともに厚い沖積層が続くものらしい。
 もうひとつは後背湿地と思われる部分の一部では軟弱な泥炭質の層が著しく厚いことで、代表的なのは羽生市三田ヶ谷付近(現在さいたま水族館がある付近)で、泥炭質の層が10mもあるという。

 つまりこういうことだ。加須低地のすぐ下には台地が隠れている(埋没台地という)ということだ。それも古墳時代前後の。加須低地は沈んだ台地の上にできた特殊な低地だったというのだ。前出の小松古墳は地下3mから古墳の石室が発見され、古墳が沖積層の下に埋没していることがわかり、また行田の埼玉古墳群や高山古墳なども本来台地の上につくられたものが、2.3mの沖積層(古墳が築かれた後に堆積した土砂)で埋まっていることが明らかとなったという。



                                                


 このような古墳築造のためには、巨大なる労働力と経済力と政治力を必要とすることはおよそ疑いがないところだ。しかもこの自然災害の氾濫地帯で、造ったとしてもすぐ破壊され、埋没してしまうことが解っているのになぜこれほどの「一大労働力」を動員する必要があるのか。悩みながら考え続けた今現在の筆者の結論は以下の通りだ。

 
1 平時において古墳はそこに眠っている為政者の鎮魂と祭祀のための施設

 2 利根川等の河川の氾濫が発生した場合(自然災害)、防災施設としての堤防的な施設


 3
 人為的に緩急な事態が発生した場合の要塞的な施設


 「平和時における鎮魂と祭祀」施設と「自然災害に対する堤防的な防御施設」「人為的な交戦状態に陥った場合の防御施設」は共有するものだろうか。「自然災害に対する堤防的な防御施設」に関しては古墳群の配置状況を考えるとあり得ると思う。が「人為的な交戦状態に陥った場合の防御施設」はどうであろうか。常々古墳や古墳群の地形条件を見ていると、古墳の要塞のような防御施設という一面を考えずにはいられない。関東地方の古墳は近畿地方に比べて規模は小さい事実は否定できないが、鹿島古墳群のように小さな古墳でも集めれば防御的な役割は十分に役に立つ。良い例が埼玉古墳群だ。埼玉古墳群のような100mクラス級の古墳を9基密集して造り、二重の周濠で固め、周濠は基本的には空堀だったらしいが、地盤は軟弱な泥炭質の層で水はすぐ溜まり、地下には潜らない為、水濠に変貌する。この古墳群には高さ20m弱の丸墓山古墳のように見張り的な機能も充実しており、これは立派な要塞に変貌するのではないか、これを防御施設と言わずして何といえばいいのだろうかと思うのだが、このような考え方は行き過ぎだろうか。


                                  

                      永明寺古墳の案内板の隣には他の文化財を記した案内板があり、羽生市指定天然記念樹に指定された銀杏も永明寺の境内にある。

 永明寺のイチョウ       天然記念物  羽生市指定

イチョウは古生代末に出現し、生きた化石といわれており、進化の過程がたどれたり、先祖返りが見られるなど学術的に貴重な植物です。中国原産で、観音像の渡来とともに日本に持ち込まれたとする説があります。雄雌に分かれる植物で、この樹は雌株ですが、珍しく大きく成長しています。高さ37.5m、目通りの周囲は4.85m、根回りは7.7mもあります。推定樹齢は500年を超えるものと思われます。

                                                                                                         案内板より引用














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 羽生市下村君地区には里帰りの神事が古くから伝えられている。

 羽生市下村君の鷲神社は、東国開拓の祖の天穂日(あめのほ ひ)命をまつる。元は古墳の上に建てられたといひ、明治の末に横沼神社を合祀してゐる。横沼神社は、天穂日命の子孫の彦狭島(ひこさしま)王の子・御室別(みむろわけ)王の姫(娘)をまつった社で、父・彦狭島王をまつる樋遣川村の御室社へ、「お帰り」といふ里帰りの神事が行なはれてゐた。
 この村君の里に、文明十八年、京から道興准后が訪れて詠んだ歌がある。

 ○誰が世にか浮かれそめけん、朽ちはてぬその名もつらきむら君の里  道興


                                下村君鷲宮神社
                                        
                                                                      村西の君 里帰りの神事とは
 
                                                 


                                                所在地     埼玉県羽生市下村君2227

                                                主祭神
    天穂日命

                                                創  建      不詳


 鷲宮神社は久喜市鷲宮にある総本社を中心に周辺には数多くの同名の支社が存在する。羽生市下村君に鎮座する鷲宮神社も数多く存在する支社の一つである。永明寺古墳の西側で距離的にも非常に近い。また公民館が同じ敷地内にあり駐車場は非常に広い。

 社殿は南側でその正面には鳥居があるのだが、その一方東側にも朱を基調とした明神鳥居があり、その正面には永明寺古墳がある配置となっている。

                                            

                                           東側にある明神鳥居。左側が公民館で、正面右側に神社がある。


                    

                    拝殿 古墳の上に建てられているようだ。              本     殿             浅間社 この石祠も古墳上に建てられているか

                                 
 

                   拝殿の手前には御手洗の池の中に弁天社が祀られていて(写真左)、境内の弁天社のそばには藤の古木があり、由来書(同右)が掲げてあった

 鷲宮神社と古藤の由来

 鷲宮神社の御手洗の池に、市杵島姫命を祭る弁天社があります。このお宮は、七福神の一人弁才天と付会され、人々から厚く崇拝されてきました。池のほとりにある古藤は、弁天社の創建のころ植えたと伝えられ、明治十七年(1884)の記録に、数千年を経たもので風景すこぶる美観とあります。
 鷲宮神社(横沼神社を合社)は、祭神を天穂日命といい、古墳の上に建てられました。2142坪の境内地には、四個(他に一個出土している)の礎石があり、社殿がたてられていたことを物語っています。また、付近から鎌倉時代の屋根瓦の破片が出土しており、社殿の修理か造営が行われたものと思われます。横沼神社は、彦狭島王の子御室別王の姫を祭ったもので、樋遺川村の御室神社へ「お帰り」という里帰りの神事が、明治の末期まで行われてきました。由緒の深い神社です。ちなみに、村君の地名が文献に現れるのは、応永年間(1394〜1427)で、文明十八年(1486)京都聖護院二十九代の住持を務めた
道興准向が村君の里を訪れ、「たか世にか 浮れそめけん 朽はてぬ 其名もつらき むら君の里」とよんでおります。荘厳な鷲宮神社や永明寺を拝し、古墳を訪ね、栄えていた村君の里をしのんで歌われたものです。現在、藤は羽生市の花として市民に親しまれています。
                                                                                                          案内板より引用


 この道興准向は、永享2年(1430年) -大永7年(1527年))室町時代の僧侶で聖護院門跡。1465年(寛正6年)准三向宣下を受ける。道興は、左大臣近衛房嗣の子で、兄弟に近衛教基、近衛政家。京都聖護院門跡などをつとめ、その後、園城寺の長吏、熊野三山、新熊野社の検校も兼ねた後に大僧正に任じられた。
 文明18年(1486)の6月から約10か月間、聖護院末寺の掌握を目的に東国を廻国北陸路から関東へ入って武蔵国ほか関東各地をめぐり、駿河甲斐にも足をのばし、奥州松島までの旅を紀行文にまとめたのが、「廻国雑記」であり、すぐれた和歌や漢詩などを多く納めている人物だそうだ。
 そしてこの村君の地を訪れた時に詠んだ和歌が、冒頭に載せた歌である。

 
                                                

                           社殿の右側には明治四年村君全域より合祀された、稲荷神社、熊野神社、八幡神社、天神社、八雲神社が合殿で祀られている。


 しかしこの「村君」とは何とも意味深な地名だ。新編武蔵風土記稿の下村君村には、村社である鷲神社は、村君王子と云う人の住んでいた地であり、後年これが村名となったとあるという。この村君王子という人物は古藤の由来の案内板に引用された彦狭島王ともその子供である御室別王、または「村君太夫」や「御諸別王の娘」とも言われ、どちらにしても古くから高貴な人とゆかりのある伝承が存在する土地ということは確かなようだ。
 この下村君地区の南東部には加須市上樋遣川地区があるが、そこには樋遣川古墳群がある。かつては7基古墳が存在していたらしいが河川の氾濫や開墾などでほとんどの古墳は削平されているが、現在は3基残っている。この古墳群の一つに諸塚古墳、別名御室塚とも言われているが、この古墳には明治34年、内務省が上毛野国造・御諸別王(豊城入彦命の曾孫)陵墓伝説地として調査したことがあるというから決してこの伝承、伝説が眉唾ものではないということが、時の為政者の調査によって逆に証明したようなものだと思われる。

 御諸別王は「日本書紀」によれば、景行天皇56年8月条によると、任地に赴く前に亡くなった父・彦狭島王に代わり、東国統治を命じられ善政をしいたという。蝦夷の騒動に対しても速やかに平定したことや、子孫は東国にある旨が記載されている。『日本書紀』崇神天皇段には上毛野君・下毛野君の祖として豊城入彦命の記載があるが東国には至っておらず、孫の彦狭島王も都督に任じられたが赴任途上で亡くなっている。日本書紀を信じるならば東国に赴いたのは御諸別王が最初であり、御諸別王が実質的な毛野氏族の祖といえる。
 これも伝承の域でしかないが、この御諸別王には2人の子どもがいて、その娘は下村君の豪族“村君大夫”のもとへ嫁ぐ。下村君にはこの姫を祀った神社があり、御廟塚古墳のすぐ近くに鎮座する“鷲宮神社”。かつては“鷲明神横沼明神合社”と称えられ、横沼明神は、御諸別王の息女を祀ったということだ。また村君に隣接する“発戸”や“名(みょう)”にも、桑原大明神と八幡神社に祀られた一位社、二位社、三位社などの高貴な人にまつわる伝説が残っている。このように下村君地区の伝承、伝説範囲は思っていた以上に広範囲であり、そこにはある共通で特定の文化圏が存在し、それがこの地域の伝承として後世に語られているように感じられる。

 さらに加えてこの下村君地区には前出の永明寺古墳が存在する。永明寺古墳は東北自動車道のすぐ東側で、地形的には利根川が群馬側に張り出して蛇行した所にあり、村君古墳群内にある羽生で最も有名な前方後円墳だ。この古墳は、羽生市で最大の前方後円墳で、全長73m、高さ7mで埼玉県下で10番目の大きさを誇り、築造年代は6世紀初頭と推定される。1931年に薬師堂の床下を発掘、緑泥片岩等を用いた石室から衝角付冑、挂甲小札、直刀片、鏃、金製耳輪などが出土している。

 この永明寺古墳に埋葬されていた王者は何者だろうか。一緒に埋葬されている衝角付冑等の出土品から考えるに、この人物は平和時にいた為政者ではなく、戦乱時の真っただ中から登場した「武人」ではなかったろうか。そうなるとこの埼玉県東北端部に位置するこの村君地区に、この大型古墳を築造した真の目的が俄然注目されてくる。
永明寺古墳から出土した埴輪の形態が埼玉古墳群の稲荷山古墳と同型であることから、稲荷山古墳と密接に関係していた豪族の主であった可能性も高い。加えて永明寺古墳の石棺の天井に使われていた巨大な石板は、荒川長瀞水系(結晶片岩?)の物だとかいう。

 埼玉古墳群と永明寺古墳のラインがうっすらと見えてきた。このラインをまっすぐ北東方向に進ませると下野国に繋がる。奈良別王及びその一族が代々が治めた国であり、「国造本記」によるとこの奈良別王は武蔵野地域を開拓したという。断っておくが武蔵野の地と書かれているだけで武蔵野のどの地であるかは記述されてはいないが、下野国から武蔵国に入るのに最短の地はこの村君地区を含む大利根地域だ。

 さらに話を進めると熊谷市奈良地区に鎮座する奈良之神社の祭神は奈良別王であり、この地域が奈良別王の影響下であったことがここで解る。

 「仁徳天皇の御代に下野国の国造りに任じられ、武蔵野の沃野に分けはいり、その徳によって荒地を開き美田を墾し、人々の発展と安住の地を造られた。そのため、郷民がその徳を偲んで奈良神社を建立し祀ったものである。」                                                            
                                                                                       国造本記/慶雲二年/文武天皇の御代の記述




 つまり永明寺古墳→埼玉古墳群→奈良之神社のこのラインがここに成立する。しかもこのラインは上野国との勢力範囲とも完全に被る地域でもある。考えてみると嘗て毛野国が上毛国と下毛国に分かれたこと自体異常な事態がおこったのでは連想される。時系列で考えると巨大な権力者でもあった太田天神山古墳の埋葬者が亡くなってまもなく毛野国は分かれたという。えてして絶対権力者の後継者問題で国や会社でも分裂し混乱すること何も珍しいことではない。世界の歴史をみてもアレクサンダー大王後の王国の分裂、フランク王国のカール大帝後の3国分裂、日本でも織田信長後の織田政権の瓦解と、枚挙に暇がない。

 筆者は現時点で考える。永明寺古墳は太田天神山古墳の王者が亡くなって毛野国が分裂し、下野国の王者が利根川を越え南下し、武蔵野を勢力範囲にするための橋頭保ではなかったのではないかと。さらに話を進めると、この下野国の王者の一族が築いたのが埼玉古墳群であり、その一派が熊谷市奈良地区にまで及び奈良之神社をつくったのではないかと。そして日本書紀安閑天皇期におこった「武蔵国造の乱」はまさに上野国と下野国との武蔵国内における全面戦争であり、下野国側が武蔵国内の上野国勢力を駆逐した戦いであろうと推測する。

 

 







                                               
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