比企郡は、埼玉県の中央部に位置し、山地から丘陵、そして沖積地へと変化に富んだ地形が特徴だ。平安時代に編纂された『延喜式』には武蔵国の郡名として比企が登場するが、「ひき」は日置が語源で、日置部(ひおきべ)という太陽祭祀集団と関係するという説がある。。ちなみに『和名抄』は「比支」と訓じている。
比企郡のある比企丘陵は外秩父山地から東方に半島状に突き出した丘陵であり、北部は江南台地、南部は東松山台地、東部は吉見丘陵に接している。丘陵内では、高根山(標高105m)、二宮山(標高132m)、大立山(標高113m)など標高100m前後の山が、丘陵の西半分の地域に散在して突出した地形をつくるが、全体的には100m以下の丘陵地形をつくっている。丘陵内部には、市ノ川・滑川およびその支流による開析が進み、広い谷底と小谷が発達している。この開析谷は、北西〜南東あるいは南北の方向をもつものが多く、これらの谷頭は丘陵の北側に極端に偏り、分水嶺は丘陵の北縁近くに偏在する。このため、丘陵北縁を東流する和田川の支谷は、未発達となっている。
ところで比企郡の「ひき」とはどのような意味があるのだろうか。上記の「日置」が語源で、日置部(ひおきべ)という太陽祭祀集団と関係するという。
埼玉苗字辞典には「日置」について以下の説明が紹介されている。
日置 ヒキ
日置部は神霊を迎える聖火の材料を製作したり、剣など武器鍛造の際に聖なる火を作るために炭焼に従事した集団である。また、ヒキ蛙のように天を仰ぎ雨乞い祈願をしたり、日招きをしたりして、暦を作成した。ヒオキ、ヘキとも称した。忌部(いんべ)・斎部(いんべ)と同流にて、忌部は朝廷神殿際祀に要する諸物の用具を整える職である。神代紀に「忌部の遠祖太玉命が布刀御幣を奉りし」。天太玉命の子天櫛耳命、其子天富命は、神武天皇朝に「天富命が神物を調ふ」と。姓氏録・未定雑姓・和泉の部に「日置部、天櫛玉命の男天櫛耳命の後てへり、見えず」とあり。和泉国は当初河内国に含まれていた。日置庄(ひき)は大阪府堺市日置荘町にて、鋳物支配頭の仁安二年斎部真継文書に「河内国丹南郡狭山郷内日置庄鋳物師等」と見ゆ。和名抄に肥後国玉名郡日置郷(へき)あり、延喜式に玉名郡疋野神社(熊本県玉名市立願寺字疋野)を載す。日置(ひき)氏の守護神なり。玉名郡菊水町江田の三宝寺発見銅版墓誌(延暦頃)に「玉名郡権擬少領日置郡公」あり。当所は有名なる朝鮮系の遺物を多く含む江田船山古墳がある。疋石野大明神由来(肥後国誌)に「昔、小岱山麓に炭焼きをして渡世する者がいたが、その頃内裏の姫君に、肥後国小岱山の炭焼別当を夫にすれば将来繁昌するとの観世音菩薩の夢告があり、姫君は女房や侍に供奉されて別当を訪れ、別当の言葉をきかず妻となったといい、別当はこの地方に製鉄業を起こし、石野大長者となり、立願寺村内に長者屋敷を構えたと云う」と見ゆ。有名なる玉名郡の小代鍛冶師にて、疋野神社は渡来系日置部の奉斎神なり。また、和名抄に能登国珠洲郡日置郷は比岐(ひき)と註す。大和国葛上郡日置郷は比於支(ひおき)、伊勢国壱志郡日置郷は比於支、越後国蒲原郡日置郷は比於木(ひおき)、但馬国気多郡日置郷は比於岐(ひおき)と註す。
東国では安房国長狭郡日置郷あり、鴨川市二子字比岐(ひき)に比定す。延喜式に信濃国更級郡日置神社を載す、筑摩郡日岐郷上生坂村に日置神社あり。ヒキと称す。
日置に根拠地を置く一族は「日置部」と呼ばれ、古代から続く名族と言われている。「日」とは「火」」で、神霊を迎えるために聖火の準備をする役職でもあり、また太陽の移動によって時間を測定し、あわせて日暦を記録する天文暦数、つまり日読みをする人たち(日置部)ではないかと思う。そうとすれば、占いも行ったと思われる。
ところで埼玉名字辞典において忌部氏、齋藤氏と同族であるとの記述がある。忌部氏は大和時代から奈良時代にかけての氏族的職業集団で 、古来より宮廷祭祀における、祭具の製造・宮殿、神殿造営に関わってきた。祭具製造事業のひとつである玉造りは、古墳時代以後衰えたが、このことが忌部氏の不振に繋がる。アメノフトダマノミコト(天太玉命)を祖先とする。その子孫は後に斎部を名乗る。中臣氏と勢力を争ったが、あまり振るわず、次第に衰退していったという。
『古語拾遺』という書物がある。作者は斎部広成で平安時代初期の官人で、忌部氏の祖先以来の経歴を述べて平城天皇に奉った書と言われている。それによると、忌部氏の祖は天岩戸で活躍した天太玉命であるが、ほかに天太玉命に従っていた五神があり、そのうち、天日鷲命が阿波忌部氏、手置帆負命が讃岐忌部氏、彦狭知命が紀伊忌部氏の祖となったという。なかでも天日鷲命は穀(カジノキ:楮の一種)・木綿などを植えて白和幣を作り、その子孫が最も著われて代々、木綿・麻布などを朝廷に貢上し、それは大嘗会の用に供された。麻植郡の名もこれから起こった。
天太玉命の孫天富命は、阿波忌部を率いて東国に渡り、麻・穀を植え、また太玉命社を建てた。これが、安房社で、その地は安房郡となりのちに安房国となったと伝えられる。いま、安房神社は安房国一宮となっている。
また天太玉命に従っていた五神のうち「天日鷲命」は日本神話に登場する神で、『日本書紀』や『古語拾遺』に登場する神。阿波国を開拓し、穀麻を植えて紡績の業を創始した阿波(あわ)の忌部氏(いんべし)の祖神で、『日本書紀』では天の岩戸の一書に「粟の国の忌部の遠祖天日鷲命の作る木綿(ユフ)を用い」とある。『古語拾遺』によると、天日鷲神は太玉命に従う四柱の神のうちの1柱でやはり、天照大神が天岩戸に隠れた際に、穀(カジノキ:楮の一種)・木綿などを植えて白和幣(にきて)を作ったとされる。そのため、天日鷲神は「麻植(おえ)の神」とも呼ばれ、紡績業・製糸業の神となる。
下野国鷲宮神社の祭神も天日鷲命であり、常陸国には阿波国との関係を連想させてくれる「那珂川」「那珂郡」が存在する。
阿波にある大杉神社は、関東・東北地方に分布する大杉神社の総本社であり、祭神は倭大物主神で水上交通の神とされるが、祭神のほうはおそらく訛伝か。この神社名に通じる杉山神社が、式内社をはじめとして武蔵の南西部に多く分布し、杉などの木種をわが国に伝えた五十猛神(天孫族の始祖)を主祭神として安房忌部の支族が奉斎した事情があるからである。
利根川下流域の両総・安房あたりから武蔵・下野にかけての地域には、フサ、麻生(常陸国行方郡)、結城(木綿で、木綿を作るカヂの生える地)等々の麻・衣服関係の地名が多く見える。麻生は、『常陸風土記』行方郡条に見える古い地名(現行方市)であり、大麻神社が鎮座する。現在の祭神は天太玉命とも、武甕槌神・経津主神などともするが、おそらく安房忌部の祖・大麻比古命(天日鷲命の子)が本来の祭神ではなかろうか。
久喜市鷲宮に鎮座する鷲宮神社の境内社である粟島神社
阿波、安房国との因果関係はどうだったのだろうか
話は変わるが、「比企」とはどのような意味があるか。埼玉名字辞典ではこのように記されている。
比企 ヒキ
和名抄に武蔵国比企郡を載せ、比岐と註す。日置部の居住地なり。埼玉郡尾ヶ崎村(岩槻市)勝軍寺安永九年供養塔に比企組と見ゆ。○茨城県新治郡八郷町二十五戸、真壁郡明野町十四戸。○神奈川県平塚市二十五戸。○新潟県北蒲原郡紫雲寺町十一戸、新津市十二戸あり。
安房国出身の比企氏
和名抄に安房国長狭郡日置郷(鴨川市)に日置氏(ひき)が居住していた。延喜式の安房坐神社(館山市大神宮)は忌部の祖天太玉命を祭神とす。安房忌部と同族の日置氏一族は武蔵国比企郡にも土着し、地名を比企と称した。両国は古代から密接な関係があった。相模国の三浦和田一族は安房国に所領を持っており、吾妻鑑・和田合戦の条に「和田義盛の子朝夷名三郎義秀、海浜に出で、船に棹して安房国に赴く、其勢五百騎、船六艘」と見ゆ。安房国朝比奈村(千倉町)は此氏の出身地なり。愚管抄(著者慈円は九条兼実の弟)に「ヒキノ判官能員阿波国ノ者也、ト云者ノムスメヲ思テ、男子ヲウマセタリケルニ、六ニ成ケル、一万御前ト云ケル。(中略)。其外笠原ノ十郎左衛門親景、渋河ノ刑部兼忠ナド云者ミナウタレヌ、ヒキガ子共、ムコノ児玉党ナド、アリアイタル者ハ皆ウタレニケリ、コレハ建仁三年九月二日ノ事ナリ。(中略)。ヒキハ其郡ニ父ノタウトテ、ミセヤノ大夫行時ト云者ノムスメヲ妻ニシテ、一万御前が母ヲバマウケタルナリ、其行時ハ又児玉タウヲムコニシタル也」と見ゆ。安房国の能員の妻は秩父党の児玉氏流片山行時の娘なり。吾妻鑑巻十七に「建仁三年九月、能員の二歳の男子等は好あるに依りて、和田義盛に預けて、安房国に配す」と。能員は安房出身の出稼衆で三浦党和田氏一族である。平家物語巻八に「征夷将軍院宣の御使は中原泰定にて、三浦介義澄して請取り奉るべし。三浦介義澄も家子二人郎等十人具したりけり。二人の家子は和田三郎宗実、比企藤四郎能員なり。郎等十人をば、大名十人して、一人づつ俄に仕立てられけるとぞ聞えし」。また、吾妻鑑巻十二に「建久三年七月二十六日、勅使中原康定等、征夷大将軍の除書を持参す。三浦義澄は比企右衛門尉能員・和田三郎宗実ならびに郎従十人を相具し、かの状を請け取る」と見ゆ。能員は三浦氏の家子であるが、比企系図等には一切記載が無い。後世の系図作成者は安房国出身とか三浦党を無視している。似たような系図には、丹党の創設者である上野国小野郷中村出身の出稼衆小野氏を無視しており、児玉党は創設者の下野国都賀郡出身の富野氏を無視している。年貢徴収者で村人の嫌われ者である武士は出稼衆で地元出身者はいない。比企氏は比企郡より、丹党は丹之庄より、児玉党は児玉郡より発祥して、其の地の出身者と考えられたが、この説は大きな誤りである。
これによると、安房国長狭郡日置郷(鴨川市)に日置氏(ひき)が居住していて、安房国忌部の同族である日置一族は武蔵国比企郡に土着して、地名も日置の五韻に近い「比企」と称したという。この両国は古代から密接な関係があったらしい。
比企氏で一番著名な歴史上の人物と言ったらだれもが「比企能員」」と思いつくが、この人物は比企郡出身の人物でないことはどのくらいの人がご存知だろうか。鎌倉時代初期の史論書である愚管抄(著者慈円は九条兼実の弟)に「ヒキノ判官能員阿波国ノ者也、ト云者ノムスメヲ思テ、男子ヲウマセタリケルニ、六ニ成ケル、一万御前ト云ケル(中略)」とあり、はっきりと比企能員は阿波、もしくは安房国出身者と言っている。また能員は安房出身の出稼衆で三浦党和田氏一族であるとの記述が吾妻鑑巻十七に「建仁三年九月、能員の二歳の男子等は好あるに依りて、和田義盛に預けて、安房国に配す」とあることからも比企出身の人物でないことを証明している。
比企郡滑川町に鎮座する淡州神社。この社も阿波国との関係がある。
阿波国と武蔵国を初めとする関東地方各国との関係は思った以上に根が深い。それと同時に、上古代阿波国はどのような国だったのか、興味は尽きない。この問題については、意想外の新しき問題が発展してきたので、稿を改めてしたためたい。
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